赤間神宮宮司:水野 直房
海峡都市として広く知られている下関市は実は下関という名前ではなかった!
知っているようで意外と知られていない下関の歴史をご紹介。

赤間神宮の歴史
長永4(1185)年、旧暦3月24日、壇ノ浦合戦にて平家一門と共に入水された第81代安徳天皇を祀る廟所建立しました。
御廟創建から4代は尼寺5代目から阿弥陀寺となり、住耺は京都から赴任してきました。(浄土宗西山派) 第50代瑞泉法印の時、明治維新にて神仏分離となり阿弥陀時は廃寺、天皇御廟が安徳天皇社となります。
明治8年10月7日、明治天皇の勅定により、赤間関の地名から赤間宮と称し官幣中社に列します。
昭和10年御祭神750年祭、社殿大改修、昭和15年8月官幣大社に昇格、赤間神宮と改称、同20年7月、戦火により全焼。
同40年4月戦災復興成り、同60年5月御祭神800年祭が勅使参向のもと、盛大に奉仕されました。
下関の文化と赤間神宮の関係
源平合戦最後の地としての関門海峡を舞台とする史跡こそ、下関の文化の原点であり、その日本精神の中心拠点が赤間神宮と言えます。
江戸時代の朝鮮通信使来航も本土上陸の第一は安徳天皇廟への参拝から始まっています。日本への玄関口として各時代を通し、関門海峡の存在意義は実に大きいものです。源平史跡としての文化遺産が現代では観光下関の目玉となっていることは疑う余地がありません。
「下関」の名前の由来
また、下関は当初、赤馬関(あかまがせき)と呼ばれており、明治維新頃まで呼ばれていました。
その後、北前船(江戸時代から明治時代にかけて、上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)、及び、この航路を行きかう船のこと)の海運の寄港地として、山口県では現在の岩国を上関(かみのせき)、防府三田尻港を中関(なかのせき)、そして赤馬関を下関と呼んでおりました。
その時代、江戸方では赤間関、民衆は赤馬関、北前船で働く人たちは下関と、それぞれの呼び名、当て字で呼んでおりました。
しかし明治22年、全国で市制がひかれ、正式名称を赤間関市となり、明治35年、当時の市長が通称であった下関と命名し、今に至るのです。

今後の祭典行事
下関の文化財として「先帝祭」を中心とする春の海峡まつりは下関の生命であると言っても過言ではありません。
それは悲劇の幼帝、安徳天皇入水という日本歴史上消すことの出来ない事実が厳然とそこに在るからに他ならないからです。
祭(まつり)というのは、そこに精神的な中心がなければ「まつり」ではありません。
「先帝祭」の場合、そこには安徳天皇の慰霊、鎮魂という大切な目的があるから、820年余の現在も続けられていることを忘れてはいけません。
下関全市、いや山口全県を挙げて盛大を期してこそ、街は賑わいを加え、人の心は豊かになるのです。
赤間神宮宮司
水野直房
赤間神宮イベント情報
平成21年5月3日 しものせき海峡まつり 先帝祭
詳細につきましては赤間神宮へお問い合わせ下さい。赤間神宮
住所 |
山口県下関市阿弥陀寺町4-1
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電話 |
083-231-4138
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FAX |
083-234-1248
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URL |
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Mail |
Profile
昭和9年 |
9月6日生(74歳)
国学院大学文学部史学科 卒業。
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昭和32年 |
宮内庁書陵部編修課に勤務。
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昭和34年 |
4月10日皇太子殿下(現天皇陛下)御成婚の儀に奉仕の後、帰郷。
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昭和61年 |
父久直の後を継ぎ、2月宮司を拝命、現在に至る。
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