赤間神宮特集|先帝祭の歴史-下関TV

先帝祭の歴史

 通常「先帝祭」と言えば、先きの帝の祭りであるから、天皇陛下にとっては、昭和天皇の御命日祭のことになるのです。

 下関の先帝祭も、勿論その起りは源平船合戦に入水された安徳天皇の御霊を、後鳥羽天皇が先帝追福のために祭られたことに始まっているのですが、都を遠く離れた下関の地では史上空前の大法会でありましたから、市民にとって「先帝祭」は一大行事となり、それ以来、御歴代の天皇が代わられても、一向にお構いなく毎年「先帝祭」としての祭礼が続けられ、ついに歳時記にも記載される固有名詞となって現在に至っているのです。

 では上臈参拝は、いつ頃から始まり、また何故このような形になっているかについて、お話をしてみることにいたしましょう。


撮影者:時枝和良

上臈参拝(昭和初期の様子) 幼帝御入水のあと、からくも生きのびて下関の地に住を得た宮廷の女官たちは、毎年春三月二十四日(旧暦)を迎えると、女房装束(十二単)を取出して服装の威儀をととのえ、山の花を手折って御廟所(今の御陵)に額付き、香をたたいて参拝し、心からなるご冥福を祈り続けました。

 しかも、列次の行粧は、平家時代宮廷における御節舞の五人五組という編成なのです。これは大変貴重なもので、既に宮中では行われなくなった行事の古い姿が、遠い下関の地に遺されていること、加えて明治維新のあと各宮中行事が復興された時、装束のうちの一具である「裳(も)」は、先帝祭の官女のそれを参考し復元したと言われております。

 現在では、いわゆる遊女の時代の名残を留めているため、全体は過去の遊郭における太夫道中の姿にならって、先頭から稚児・警固・官女・禿・上臈の順に列立参進しているのですが、この列立からもお判りのように、官女がまん中に来ていること、しかもそのすぐ前に警固という役が前行していることは、官女のすぐ後ろの禿(かむろ)が本来は後衛の警固役であったことをあらわし、前に二人、後ろに二人を配し、その真ん中に位置して参進する、この姿が古風なのです。そこで本来ならばこの女官が主役でなければならないのですが、時代の変遷とともに列立ては風流行事となり、街の繁栄に伴う賑やかさが加わって、追福の姿から華美を競う太夫道中の化粧と一体化すると同時に、グループの中心も官女から最後尾の上臈へと大衆の眼は移っていることにも注目しなくてはなりません。しかし、祭礼中最も大事な神前での拝礼儀式にありましては、八百年の伝統そのままに、先ず官女が玉串を捧げて拝礼し神酒を受けます。そのあと上臈の参拝となっていること、また独自の拝礼の所作に注目していただきたいのです。拍手の両手を帯の前で止めて打ちこまない作法を中心に、結髪と衣裳など「先帝祭」全体として、下関の無形文化財に指定されていることも、これでお判りでしょう。

戦前の先帝祭の様子先帝祭の姿が現在の風俗になったのは、いつ頃からなのでありましょうか。
これは幾星霜を経ている歴史の中で、戦乱等のため衰徴していた時代もあります。このような時、これではいけない、下関を活性化しなくては・・・と、下関遊郭の雄であった大阪屋の主人が全店をあげて御祭礼を応援しました。
 かくして、現在の形態にまとまったものであろうと推定されます。おそらく江戸時代のころと考えて良いでしょう。
 しかし周囲がどのように変化しても、中央の女官だけは厳然として変っていないことに今一度注目していただきたいものです。

 ところで、五組編成のうち最初の組の上臈を「振袖」と呼び、最終五組目の上臈を「傘留(かさどめ)」と呼んでいるのは大夫道中から来ています。



戦後の先帝祭の様子 また、赤間神宮の境内に入りますと、現在では水天門の内側から拝殿に向って、祭礼の時だけ陸橋(これを天橋と呼んでいます)が架設され、この橋の上を華麗な道中が進み、とりわけ上臈の踏む八文字の歩み方と、うちかけの裾さばきに見せるあでやかさは格別であり、一目千両と呼ばれて来たことも肯けます。しかもこの天橋つまり、お練りのための道づくりは以外に古くからあったことが室町時代に書かれた阿弥陀寺の全景図(赤間神宮文書第十巻に所収=国指定重要文化財)に見られます。この頃は架設ではなく、置道としての美事な体裁を整えていることも驚きです。上臈参拝の沿源もまた明らかではありませんか。
 しかも、この道は東側にある寺の坊の前から始まり、本堂の前を横切って御廟所である天皇殿に到っています。これは正しく東の坊を起点にした先帝法会の為の道であって、今の御陵も維新を迎えるまでの天皇殿は、西海に没せられた幼帝の御心情を配慮して東向きに、都を望ませ給う位置に建てられていたこと、この安徳天皇尊像を囲んで平家一門の画像と、源平船合戦図の描かれた天皇殿を中心にして、東側に本堂(阿弥陀堂)、西側に方丈(庫裡)があり、山門をくぐって本堂に進む間を横切っている置道は、参詣者のために、そこだけ切りとって太鼓橋をかけ、参拝に支障なきを期してあることも、まことに味わいのある姿です。

 日本の、というよりアジアのそれは本来悲しむべき命日が、霊魂のよみがえりであるとして次第に華やかさを加え、葬(はふり)から祝(はふり)へと転化する、先帝祭も全く同じ形態で現在に至っており、皇怨霊鎮謝(天皇の怨霊たたりを鎮め謝する)のためのまつりが、中にその祈りをこめて、外には華やかなまつりに展開されて行く。


現在の先帝祭の様子 先帝祭をひもときますとき、今一つ忘れてならないこと、それは中島家の参拝です。
 寿永の昔、海峡に身を投じ給うた幼帝の御身は折からの満潮(西流)に流されて、本州と彦島の間、小門(おど)の瀬戸に漁澇する中島家の祖、中島四郎大夫正則の網により尊骸は揚げられ、関門の風光最も優れた紅石山の麓に手厚く葬られたのが今の安徳天皇阿弥陀寺陵であると、古くから伝えられており、尓来、その勲功を賞で上臈の参拝(つまり官女の参拝)に先立ち、中島家一家は大紋に威儀を正して天橋を渡り、参拝を行う慣しとなって現在に至っていること。従って本殿祭の翌日行われます。本宮を出発してこの旧蹟小門の御旅所まで神輿(鳳輦)の往還する御神幸祭に当っては、この御旅所に待機して、鳳輦の到着するや、自ら撈った神饌を恭しく供する役を、今も中島家によって続けられていることも、特に申し添えておきたい歴史の一つです。

赤間神宮宮司
水野直房 著

赤間神宮

住所
山口県下関市阿弥陀寺町4-1
電話
083-231-4138
FAX
083-234-1248
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Mail

3日(日・祝)先帝祭・上臈道中及び上臈参拝日程

9:30~9:40    西部公民館前出発 (伊崎町) 上臈道中 (外八文字披露)

10:00~10:10  グリーンモール商店街 上臈道中 (外八文字披露)

10:30~10:40  豊前田商店街 上臈道中 (外八文字披露)

細江町~入江町~南部町~市役所経由

11:20~11:30  唐戸商店街 上臈道中 (外八文字披露)

12:30~12:45  赤間神宮 十二単正装参拝

13:00~15:00  赤間神宮 上臈参拝 (天橋渡り)

  

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